戦後の甲子園は1947年から

素振り

甲子園は阪神電気鉄道が所有しており兵庫県西宮市甲子園町にある47500人収容できる野球場です。元々は全国中等学校優勝大会という今の高等学校野球大会の前身である大会が大阪の豊中市で開催されました。球場が狭かったので3回目には兵庫県の鳴尾球場で開催されましたが人気が高まり観客を収容しきれず大きな野球場を建設することになりました。

1924年の8月にポロ・クラウンズ球場というアメリカの球場をモデルに日本で始めてとなる大規模な野球場が完成されました。ポロ・クラウンズは当時のニューヨーク・ジャイアンツのホームグラウンドでした。

1924年は干支で甲子の年であることから甲子園と名付けられました。その後太平洋戦争によってGHQの支配下におかれ大会は中断を余儀なくされ駐屯基地として使用されていました。

高校野球大会が復活したのは1946年ですが西宮球場で行われ戦後、甲子園で開催されるようになったのは1947年の選抜大会からです。

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ボール

甲子園球場には魔物が住む

野球

春夏と高校野球の激戦が繰り広げられる甲子園球場では、時に奇跡の逆転劇やエラーなどにより劇的な展開となることがあるため、「甲子園には魔物が住む」と言われています。

1979年の夏の大会3回戦の箕島高校対星稜高校戦は、まさに魔物の名に相応しい一戦として長く語り継がれています。尾藤監督率いる箕島高校は優勝候補の一角とされ、順調に勝利するだろうと見られていましたが、対する星稜高校もエースの好投により互角の勝負を繰り広げていました。

1対1のまま両者譲らず延長戦に突入、最初にリードしたのは星稜高校でした。12回表に1点を挙げ2対1とした星稜高校でしたが、裏の攻撃でツーアウトからホームランが飛び出し、2対2の同点となります。

16回に再び3対2とした星稜高校でしたが、その裏に悪夢が待っていました。ツーアウトからバッターがファウルフライを打ち上げ誰もが万事休したと思った瞬間、人工芝に足を取られた一塁手が捕球できず、しかもホームランを打つというまさかの展開で3対3の同点となります。同点のまま18回まで終了すれば規定により引き分け再試合となりますが、18回裏に箕島高校が1点を挙げサヨナラ勝ちを収め、長い戦いの幕を閉じました。

高校野球史に残るこの試合は、後にメディアでも取り上げられるなど話題となりました。

甲子園の魅力は逆転劇

球場

スポーツには時間で試合が終了するものと、あらかじめ決まった得点などのルールで試合が決するものの2種類があります。野球は後者の方で、ルール上はどんなに得点差があっても逆転できます。

試合後半になって大きく負けていると気持ちも萎えて雑な試合になりがちですが、甲子園大会などの高校野球は、若い選手たちの諦めない姿勢が感動を呼びます。地方の代表として、全国大会に出場できないライバル校のぶんまで戦う、絶対試合を捨てない姿に、応援する人たちは心を打たれます。

プロ野球と違ってトーナメント大会ですから、負ければ次はありません。特に3年生にとっては最後の大会ですから、どんなに点差があっても諦めることはできません。その日のために辛い練習を毎日頑張ってきたはずです。

チームメイトと励まし合いながら、頂点に立つことを夢見て頑張ってきたのです。成し遂げられなかった先輩や、その姿を見てきた後輩のためにも、あきらめずにプレーするのです。

高校野球でも誤審は存在

バッター

誤審は審判員の判断が誤っている状態のことを言い、野球を進行する上で中立的な立場を持っている審判員の判断は試合の結果を左右することとなることが多いです。特に甲子園大会やその予選大会で誤審が行われると、選手の人生を左右する結果にも繋がるため、いかに野球ではそれを防ぐかがカギとなります。

審判員は日ごろ、正確な判定を下せるように訓練されているのは確かですが、高校生が必死にプレーをすることが前提になっているため、なかにはプレーの結果を判断し辛いシーンも存在します。また肉眼により確認することとなるため、なかには見間違いなども起こるケースがあります。

その場合は試合を一時中断し審判員同士が協議を行い、主審がマイクを持って解説するといったシーンが甲子園でもよく起こります。現在は文明の機器が発達しており、徹底した判定を行うなら後からプレーを確認できるビデオ判定も導入することは可能です。

ただ野球の本質が人間がプレーを行うものであるため、人間臭さを残している点で優れ、誤審はあってはならないが、それを極端に気にしてはいけないのも野球の良さかもしれません。

チームメイト